オリジナルを超える
Vol.004 — 2026 年 10 月 2 日発行
主筆の池淵峻一です。この号では、最近の対話についての話を書きます。人から学ぶとはどういうことか。そして、師を超えるとはどういうことか。私が長く考えてきたテーマです。
近況報告
最近、だいたい週に一度、ある方と話をしています。私にとって、人生の師の一人です。
この方との対話は、「Monsters Dialogue」という名前で収録しています。毎回ある程度はテーマを決めて、前半は雑談、後半は複数のテーマについて話しています。本の素材として録りためています。近々、対話集として出版する予定です。
観察
私は多くのことを人から教えていただき、学んできました。対話している方もその中の一人です。 以前、はっと思い至ったことがあります。このままやっていては、私は一生この人を超えられない、と。
同じフィールドで戦っている限り、私はこの人を超えられない。近づくことはできても真似の域を出ることは、ない。 そこからです。私は自分が戦うフィールド、勝負する場を真剣に考えだしたのは。自分が「勝てる場所」を探し出しました。
話は学ぶということに戻りますが、「学ぶ」という言葉の由来に「真似る(真似ぶ)」をあてる説があるそうです。学びは真似から始まる。それは別におかしなことでも間違ってもいない。ただ、真似ることは近づくための方法であって、超えるための方法ではありません。このことに気がついた時、一つ決心しました。
洞察
繰り返しにはなりますが、真似ること自体は、悪いことではありません。学びは真似から始まります。手順を真似て、判断、思考を真似ることで、一人で手探りするよりも速く、遠くまで行けます。師がいるということは、真似るべき「先」の実物があるということです。
ただ、真似には限界があります。真似ているあいだになぞっているのは、自分以外の「他者」です。師に近づけたと思ったとしても、それはオリジナルに対する、劣化コピーです。
ピカソの言葉として、「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」という一節が伝えられています。出どころははっきりしませんが、私はこの言葉をこう解釈しています。ここで言う盗むとは「本質を盗む」こと。師の「やったこと」を真似るのではなく、師が「なぜ」そうしたかを自分のものにする。本質を盗めば、もう模倣(コピー)ではなくなります。
仏教には、月を指す指のたとえがあります。ブッダは、私の指ではなく、私の指が指している先を見よ、と説いたと伝えられています。指を見つめているかぎり、月は見えません。師の言葉や振る舞いは指で、見るべきは、その指が指している先です。指を真似るのをやめて同じ月を見上げたとき、はじめて師と同じ場所に立てます。そこから先は、師の指ではなく、自分の目で見ることになります。
私は、オリジナルを超えようと決心したときが、人生で何度かありました。
超えると決めるとは、何を捨てるかでもあります。捨てたのは、師の後ろにいる安心感です。真似ているあいだは、答えを人に任せておけます。判断に迷ったとき、師のやり方が正解の代わりになる。超えると決めた瞬間、絶対的な答えはなくなります。答えを決めるのは自分です。
師への恩返しとは何か。最高の恩返しは、師を超えることと私は考えています。教えを守り、真似て、弟子で居続けることは、恩返しになりません。咀嚼し、消化し、受け取ったものを自分の血と肉と骨とし、自分のものにすることで、師を超えていく。それが、受け取った側にできる最大の敬意であり、恩返しだと考えています。
そして、これは自分にも返ってくる話です。私がほしいのは弟子やフォロワー(追従者)ではなく、対等な対話の相手で、独立した個人です。私から学んでくれる人がいるなら、その人には、私の屍を超えていってほしい。超えられることが、教える側の仕事だと、いまは思っています。
まとめ
学ぶことは真似るから始まる。けれど、真似のまま終わらせる必要はない。師を超えること。それが、受け取った者にできる最高の恩返しだと、私は考えています。そして、自身の屍を超えていく人を育てることこそが教育だと思っています。全ての人が自分の山(戦う場所)を持っています。屍を超えていき、自分の山を登ろう。屍を超えていけ。
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池淵峻一
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